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再度、森林公園から山手へⅠ・根岸住宅看板 - 鵜雪

2021/06/12 (Sat) 14:18:00

再び根岸森林公園のある根岸台地から海際の山手台地への道を辿った。二つの台地を結ぶ山手本通りを通るためだ。
根岸台の根岸森林公園からは先日辿った鷺山竹之丸通りを経るか、山手本通りを経るかの二つの選択肢がある。山手本通りはやや南側を大回りして山手台地へ至る。この通りをやや下っていくと、米軍根岸住宅の看板が見えてくる。戦後70有余年を経て未だにこのような看板が悠々と残されているのも見方によってはいささか奇異な光景だ。

再度、森林公園から山手へⅡ・地蔵坂から - 鵜雪

2021/06/12 (Sat) 14:20:26

坂を下ったあたりには山元町の古い庶民の住宅街と商店街らしい雰囲気が残されている。山手台地への坂を上ってしばらく行くと地蔵坂の路とぶつかる。地蔵坂はJR石川町駅付近を通って登ってくる坂でここからよく市街が見渡せる。

再度、森林公園から山手へⅢ・山手イタリア山 - 鵜雪

2021/06/12 (Sat) 14:22:53

しばらく行くと左手に山手イタリア山庭園がある。この庭園は明治13年からしばらくの間イタリア領事館が置かれていたのでイタリア山と呼ばれており、幾何学模様のイタリア式庭園が残されている。又園内には外交官として活躍された内田氏の旧宅が移設されて外交官の家として公開されている。
JR石川町駅の真上に位置する。

再度、森林公園から山手へⅣ・港の見える丘公園 - 鵜雪

2021/06/12 (Sat) 14:25:31

山手本通りの突き当りが港の見える丘公園。そこからレインボーブリッジが遠望できる。
この地は、幕末はイギリスとフランス軍が駐屯、戦後はアメリカ軍が接収した要地。昭和37年(1962)横浜市が公園を開設した。戦後大流行した流行歌、「港が見える丘」として有名だ。
付近には、神奈川近代文学館、大佛次郎記念館等沢山の見所がある。

再度、森林公園から山手へⅤ・媽祖廟 - 鵜雪

2021/06/12 (Sat) 14:27:54

アメリカ山の海側にあるフランス山を下れば、元町商店街の端。商店街を通り前田橋を右折すれば朱雀門を通って中華街。朱雀門から入った通りである南門シルクロード通りに横浜媽祖廟がある。
海の守り神、女の神様である媽祖を祀った廟。今は広く災難から守ってくれる神様として、台湾、中国、東南アジアを中心に厚い信仰を集めている。
この媽祖廟は平成18年(2006)横浜開港150年を期として落慶開廟した。その祭は新しい横浜中華街名物となろう。
6月9日、JR根岸駅、根岸森林公園、山手本通りを経て山手イタリア山、港の見える丘公園、フランス山、元町通、中華街を経てJR関内駅まで、歩約19000。

根岸森林公園から元町商店街へⅠ・競馬場遺構 - 鵜雪

2021/06/02 (Wed) 21:21:11

人間30歳を過ぎると筋肉量は減少していくとのこと、運動能力が衰えていくことである。加齢しても運動能力を維持していくには、衰えていく筋肉を補う運動と栄養が必要になる。幸いにして、筋肉というものは何歳になっても補えるものだそうだ。
ジムなどで運動をする必要はない、労働と歩くことによって体を動かせばよいのではないか。
閑話休題、横浜の南部、根岸地区に根岸森林公園という広大な緑地がある。そこには幕末の慶応2年、(1866)から根岸競馬場があった。その後、あまたの変遷を経て今の姿になった。
変遷は大略次のようである。
居留民の競馬場から日本人も参加できる競馬場に変わったのが明治13年、明治38年から天皇賞の前身のレース創設、以後天皇賞、皐月賞レースを開催、競馬中止となった昭和17年まで横浜競馬場の名称で継続、同年海軍が敷地を接収、18年閉場して競馬場としての使命を終えた。戦時中クラブハウスは、連合国の民間人を収容する施設として使われた。
戦後連合軍が接収、連合軍住宅地(根岸住宅)やゴルフ場として使用され、昭和39年一部の接収解除、昭和44年に至りほとんどの土地が返還された。昭和52年横浜市が政府から無償供与された土地に根岸森林公園を開設。
写真は競馬場遺構として残されている一等馬見所、震災後昭和4年に再建されたもの。写真の遺構の左側にランドマークタワーが遠望できる。

根岸森林公園から元町商店街へⅡ・公園にテント - 鵜雪

2021/06/02 (Wed) 21:24:09

公園は、競馬場の遺構(一等馬見所)を残すスタンドエリア部分と、ゴルフ場として使われていた馬場内エリアとに分かれ、その間に接収地が残されている。総面積、約19万平米。馬場内エリアはゴルフ場の芝が残されており、大震災の際には、避難民がテントを張って仮住まいする風景も見られるようになるだろう。

根岸森林公園から元町商店街へⅢ・公園に遠足 - 鵜雪

2021/06/02 (Wed) 21:27:10

幼稚園児の遠足の風景も見られる。

根岸森林公園から元町商店街へⅣ・アメリカ山公園 - 鵜雪

2021/06/02 (Wed) 21:29:40

根岸森林公園を出て、鷺山竹之丸通りを通って一度本牧通りに下る。本牧通りを横切り反対側の山手台地にある山手公園に階段を登る。山手公園(日本テニス発祥の地)を出て三叉路を左折、山手本通りを右折すれば元町公園を経て外人墓地が左側に見えてくる。外人墓地に沿って道を辿れば、やや坂を下った先にアメリカ山公園がある。
アメリカ山公園は平成24年に開園した新しい都市公園、地下鉄みなとみらい線の終点駅、「元町・中華街」の元町出口駅舎の屋上にありエレベーター、エスカレーターで直結、山手台地の北端に位置する。そこからは横浜中心街が一望できる。
山手台地に登るメイン道路、谷戸坂の海側にフランス山があるので、アメリカ山とされたのだろう。
咲いているバラをバッタが食していた。写真にレインボーブリッジがかすんで映っている。
この季節、森林公園を含めて沿道の至る所でバラが咲いていた。

根岸森林公園から元町商店街へⅤ・元町商店街 - 鵜雪

2021/06/02 (Wed) 21:32:18

アメリカ山公園をエレベーターで下れば、そこは元町商店街の海岸よりの端。
なぜこんなところに有名な商店街がと思うのだが、元町商店街は嘗ての山手居留地と山下居留地の間にあり、居留外国人を相手に開けた商店街ということで納得できる。150年以上の古い歴史も持つ。
ここから不二家とかポンパドールとかキタムラとか、幾つかの有名ブランドが生まれていった。
6月1日、JR根岸から根岸八幡神社脇の階段(地元住民のみ知る)を上り根岸台地へ、森林公園で昼食、鷺山竹之丸通りを経て山手台地へ、アメリカ山公園、元町商店街を経てJR石川町へ、歩約16000。
(鵜雪歳時記・横浜異国の香りⅠ~Ⅸ,10・10・26参照)

新旧の野菜Ⅰ・スティックブロッコリー - 鵜雪

2021/05/30 (Sun) 11:23:16

ステイック(茎)ブロッコリーが普及し始めている。ブロッコリーと中国野菜の菜花の一種を掛け合わせて創り出された新しい野菜、大きく育つ頂花蕾を食べるブロッコリーとは違って、脇芽として長く伸びた茎を花蕾と一緒に食べる。茎は甘みがありアスパラガスのようにコキコキと歯ざわりよく食べられる。
特徴は週に1回程度、長い期間にわたって収穫できることで、その日のうちに食卓に載せられる、将に家庭菜園向きといえるだろう。ステイックセニョールという名前でも出回っている。
作り方はブロッコリーと大きくは変わらないので、3月か8月頃苗を購入して、二人世帯の菜園なら、二本植えておけばよい。数カ月の間、気の向いたときに賞味できる楽しい野菜だ。

新旧の野菜Ⅱ・じゃがいも - 鵜雪

2021/05/30 (Sun) 11:27:54

ジャガイモを収穫した。これは古い野菜の代表、3月に植えつけて5月末には収穫できるとは、世界の飢饉を救ったといわれてもおかしくない頼もしい野菜だ。今収穫した「男爵」の写真だ。

横浜山下公園21Ⅰ・スズメ - 鵜雪

2021/05/25 (Tue) 21:30:00

久しぶりに横浜・山下公園を訪れた。コロナ禍で非常事態宣言の最中であるせいか、5月にしては人出が少ない。雀にとっては人出が少ないのは困ったことなのだろう。椅子に座っていたら餌を求めて集まってきた。観光地の雀は人なれしている。

横浜山下公園21Ⅱ・アナグマ - 鵜雪

2021/05/25 (Tue) 21:32:10

見慣れない動物を連れて散歩している女性がいた。アナグマだという。アナグマは割かし人里に近いところに住む小動物。狸と併せてムジナといわれてきたが、狸がイヌ科であるに対してアナグマはイタチ科と近しい関係ではない。唯「同じ穴のムジナ」というように同じ巣穴に住み着いたり、食物もほとんど同じで、狸寝入りをするのも同じと生活が良く似ているので、混同されてきたのだろう。
このアナグマは、トマトが餌だという。

横浜山下公園21Ⅲ・氷川丸とニューグランドホテル - 鵜雪

2021/05/25 (Tue) 21:34:52

山下公園といえば、バラ園を挟んで海に氷川丸、陸にニューグランドホテルというのが、この公園を代表し、しかも最も横浜らしい風景だろう。

横浜山下公園21Ⅳ・中華街 - 鵜雪

2021/05/25 (Tue) 21:37:00

普段はウイークデイでも雑踏する中華街は、閑散としていた。一日でも早く活気が戻ることを願うところだ。5月24日(月)、京急日ノ出町駅、伊勢佐木町通、山下公園中華街を経て地下鉄関内駅まで、歩約16000。

三浦半島の一隅毘沙門村落を訪ねてⅠ - 鵜雪

2021/05/15 (Sat) 18:54:43

5月12日、地域のコミュニテイで友人となったHさんが、三浦市の一隅に新しい居を構えるということで、誘われるままに新居を訪れた。
三浦半島・三崎の入り口、半島の東西を走る国道が一本になって三崎市街へと通ずる合流点付近に引橋という地名が残っている。恐らく戦乱があった昔はこの付近に割濠があり、いざの時には橋を引いて敵方に攻め込まれないようにする城郭の一部をなす仕掛けがあったのだろう。この引橋の三崎市街側の一つ先に、松輪入り口というバス停がある。国道から左に入り松輪に通じる街道の入り口だ。
そこを出発点として、毘沙門にあるHさんの新居までの約4キロの行程のウオーキングの記録だ。
Hさんは長らくお住まいだった街中のマンションを引き払い、15年ほど前に手に入れていた古民家を整理して移ろうとされている新居である。

三浦半島の一隅毘沙門村落を訪ねてⅡ - 鵜雪

2021/05/15 (Sat) 18:57:53

松輪入口から舗装道路を数分歩くと、人家は途絶えて畑と林が両側に広がってくる。7~8分で毘沙門への分かれ道、直進すると途中三浦霊園を経て松輪・剣崎方面へ、右に折れ南下すると毘沙門方面だ。この辺は両側一面の畑、左下に環境センターがあり、目を移せば東京湾を経て房総の山々が見渡せる。
緩い坂道を上っていくと岩堂山の山麓(切通し)に至り右側に相模湾と伊豆半島が、そしてさらに進んで南山麓に至ると東西南と扇を拡げたように見渡せるようになる。この辺は大根丘陵縦断街道と呼ばれており、岩堂山を大根丘陵とよびそこを縦断している街道というのが名前の由来だろう。
写真の左に見えるのが岩堂山の山裾とその下を通る街道、手前には収穫後のキャベツ畑が広がり、彼方に房総半島が遠望される。

三浦半島の一隅毘沙門村落を訪ねてⅢ - 鵜雪

2021/05/15 (Sat) 19:00:10

偶々、峠でたたずんでいたら、車で通りかかった妙齢のご婦人がわざわざ声をかけてくれて、「この辺は冬に来るのが一番いいですよ、富士山から大島、房総が一望できるから。」と言って走り去った。
岩堂山は標高87メートル程の山というより丘陵、その南斜面はなだらかに海岸の断崖まで下っており、そこに一面の畑がつらなり、幾つかの村落が点在しているのが一望のもとにある。
そういった地の利から、恐らくは昔から大切な場所とされてきたのだろう。今は丘の上には神明神社がまつられており、街道筋には、道祖神と稲荷社(写真)がある。明治期は一帯は要塞地帯とされ、付近には砲台や監視塔があったようだ。因みに岩堂山は、国土地理院地図に山として記載されている神奈川県で最も低い山だそうだ。
街道を下ると大乗というバス停があり、そこを右に折れれば目指す毘沙門部落(三浦市南下浦町毘沙門)。

三浦半島の一隅毘沙門村落を訪ねてⅣ - 鵜雪

2021/05/15 (Sat) 19:02:37

毘沙門部落には海応寺という禅宗の寺があり、鎌倉時代末期から室町初期に建てられたと思われるこの古刹を中心に村落が出来上がったのだろうか。漁村の面影はなく農村の佇まいだ。

三浦半島の一隅毘沙門村落を訪ねてⅤ - 鵜雪

2021/05/15 (Sat) 19:05:27

Hさん邸は公道から農家の庭先を入った奥という感じで170坪ほどの庭を持つ平屋建ての白壁・黒塗りの古民家。入口には毘沙門クラブの看板がある。
庭は花と野菜に周囲を囲まれた広々とした芝生だ。

三浦半島の一隅毘沙門村落を訪ねてⅥ - 鵜雪

2021/05/15 (Sat) 19:07:25

一隅にはバーべキューが出来る、ローマの遺跡を思わせる大きな石畳(写真)があり、珍しい夏椿(写真)が咲いていた。歩数約1万(松輪入り口から目的地までは約7000)の快適な散策だった。


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